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2011年 3月 26日 (土)

誰もが誰かのために。【救援物資第三便(仙台)報告】

by ちゃーりー




24日の早朝、3時50分
トラックが1台が仙台に向かい、平和島を出発しました。
そのトラックには、3人。助手席の窓側には、私。

―もう一度救援物資を届けるトラックを出す―

そう聞いてすぐ、
社長にメールをかいている自分がいました。
「自分を行かせて下さい。」


トラックは東北自動車道へ。
17日に出た救援物資配送便担当者から送られてきた写真で見た場所。
そこには、同じ場所なのに 違う光景がありました。


段差やひび割れのあった道路は、舗装・修復され、
走るトラックはほとんど揺れません。
警察と自衛隊の車ばかりだった高速には乗用車が走り、
全国から集まった警察・消防・自衛隊の物々しい車両が並んでいた
吾妻パーキングのガソリンスタンドには、乗用車が長い列を作っていました。

すれ違うトラックの積み荷は、
・荷台いっぱいのガスボンベ
・仮設トイレ
確実に 復興に向かって動いていることを感じました。



そして、高速を降りて仙台市内へ。
仙台市内は、電気・水道は復旧。
道路は車も多く、少し見ただけでは地震の影響があったのか分からない位ですが、
コンビニをはじめとする店はほぼ閉まっており、
食料はじめ生活に必要なものが揃わない状態が未だ続いています。
唯一営業をしている大型スーパーには、店のまわりを取り囲むように、
入場待ちの長い列が出来ていました。

未だガソリンスタンドはほぼ閉まっており、
あいていても緊急車両のみ給油ができる状況で、
今までの生活に戻るにはまだ時間がかかりそうです。



はじめに向かったのは、仙台市内にある
焼き立てパンとコーヒーの店。
ここを訪れた理由は、
このお店を運営する東京本部担当者様よりいただいた 一通のメール。

「仙台店への野菜の供給が現在できずにいます。
店舗は先週の土曜日から営業を短時間ですが再開し、
地域のお客様に
喜んでいただいております。
3/24に救援物資便が出るということでうかがいましたが、
貴重な便に弊社の商品を乗せて頂くなど
大変申し訳ない依頼なのですが、
可能であれば是非よろしくお願いいたします。」


このお店は地震前までは、早朝より営業していましたが
現在は、11:30〜14:00 とお昼時間のみ営業しています。
着いた時間は 朝9:00
通りを歩く人が、何人か店の前で足を止め、開いてないかな・・・と
店の中を覗き見る姿を見かけました。
この日お持ちしたレタスとトマトが震災以来約2週間ぶりの野菜。
来られるお客様に野菜が食べてもらえる!
そういってとても喜んでいただけました。
自分達のことではなく、来られる方のことを思って喜ばれる姿が印象的でした。


次に向かったのが、同じく仙台市内にある弊社納品先の仙台支部事務所。
納品先東京本部からの支援物資をお届け。
その多さにちょっとびっくりされつつ、本部の心遣いに感激されていました。
皆さん総出で荷物を運ぶのを手伝って下さいました。
ここでも、
これはあの店に届けよう、
それはあの人に渡そう 
自分達のことよりも、他の人のことを想って 喜んでおられる姿が。




そして先日物資を届けた協力会社へ。
協力会社は、少しずつですが営業を始めていました。
しかし、燃料の問題で配送がなかなか出来ていない と言います。

「自分達は大丈夫です。
まだ困っている方々がいるので、そこに届けてほしい」


一緒に、多賀城市高橋にある老人施設へ車を走らせました。

仙台塩釜港に近いこの施設は、
津波の被害はあまり受けていないものの
電気は18日頃より復旧したが、水道・ガスは未だ通らず。
水道が通るのも来月になるという状況でした。


ここには年配の方が100名ほど入居されています。

津波の水は、建物の目の前を流れていったそうです。
幸い、扉で堰き止められ建物の中は浸水しませんでしたが、
水が入ってきたらみんなをどうやって避難させたらよいのか・・・
本当にどうしようかと思った・・・

責任者の女性は、そうおっしゃっておられました。

職員の中にも、家が流されてしまった人がおられるのですが
入居されている方が心配だ と
変わらず毎日、施設に働きに来られているんだそうです。


まだ寒い日が続く中、暖をとることのできるのは石油ストーブのみ
しかし、石油が足りないため最低限しか使うことが出来ず、
職員の方がいるフロアは、暖房もなく寒いままでした。

今回持ってきた多くは、九州の産地からお預かりしたもの。
お届けした物資を目の前に
「本当に助かります」
そう言ってくれた、その目には涙。

その中には、
カフェも運営されている化粧品メーカーから「ぜひ届けて欲しい」と預けていただいた
箱一杯の高級チョコレートもありました。
施設職員の方は女性が多く、
このチョコレートを見た瞬間、場の空気が柔らかくなり
皆さん、「職員の顔」からすっごく嬉しそうな「女の子の顔」になった
そんな気がしました。

この施設にお届けした物資は、
周辺の施設へも運ばれ、分け合っていただくことが出来ました。


全国から集まっている救援物資
避難所や被害が大きかったところに優先的に届けられていると思います。
もちろんそれは重要なことですが、
避難所ではないところにいる方々の中には、
食事も満足に取れない状態でいる方が大勢おられる現実。


そんな中、街には
「自分のため」 より 「誰かのために」
何かをしようとしている光景がありました。



店の軒先で営業を始めている 個人商店
寿司屋の駐車場で行われている 炊き出し
壊れた壁をビニールシートで覆い、店を開ける衣料品店


商売を再開したい というのではなく
「自分の出来ることをしたい」 という気持ちからであると感じました。



仙台塩釜港 

車のナビが
「踏切をわたって下さい」と告げます。

そこには、車の残骸と金属がばらまかれたアスファルトがあるだけ
踏切の痕さえありません。
ナビの間違いか・・・そう話しながら少し進むと
途切れと途切れの線路がありました。

―そこは確かに踏切があった場所でした。―

目の前に現れる光景は、

傾いた送電線搭
骨組みだけが残った建物
折れまがった街灯



それでも
車の残骸は横に寄せられ、車が通る道が出来ています。

そして、製油工場でしょうか
煙突から上がっている炎は、
「ここで動いているよ 頑張っているよ」 
と 復興ののろしを上げているように見えました。



一方、名取市では
まだ自衛隊の方々が、細長い棒を手に捜索をされていました。



その光景にカメラは向けられませんでした。

しかし港周辺や名取市のその状況は
切り取られたように自分の中に残って動きません。



たったこれだけの文章を書くのに
いつの間にか朝になってしまいました。

自分にこの状況を語る資格があるのか・・・
今も、
言葉と気持ちが、胸と喉の間で閊えて
飲み込むことも、吐き出すことも出来ずにいます。


でも・・・
施設に救援物資を届け終え、
皆さんに挨拶をして扉を閉じた瞬間、
扉の向こうで
たくさんの歓喜の声があがったんです。


聞こえたその声は、
よろこびに溢れた声 でした。
それは
自分達が届けに来たことで聞くことのできた声 でした。

その時の胸が熱くなる気持ちは、今も心の中に残っています。


今、日本の多くの人が
「何か」をしたくて考えている中、自分が、
「生きるために必要なものを届けることのできる仕事」
に関わっていられることを少しうれしく思いました。

これから、地域によって速度は違えど復興へと歩んでいく中、
その役目を担い続けることが、
自分達に出来ること であると感じました。


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